第35話

車庫のテーブルへ戻ると、チーフが内線を掛けようとして電話器を手に取ったところだった。

「今、『教育係』を呼んでいますから」

「えっ? 『降車係』が医務室へ通報したのでは?」

「ええ。そうです。ちょっと待って下さいね。説明しますから・・・」

チーフが電話をしている間に、私は折りたたみイスに腰掛け、ファイルをテーブルに置いた。

「なんと、A子さんの労災としては、誰も通報していないことが分かったのです」内線電話を終えたチーフはそう切り出した。

「えっ?! というと?」

「腰抜けジェットの発生を判断した『降車係』が、その腰が抜けたお客様のために内線電話を掛けたのです。この通報を受けて、産業医と看護師が駆けつけたようなのです・・・」

チーフが今しがた『降車係』から聞いた情報によれば、腰抜けジェット発生の合図を『発車係』へ送った後に、ふと思い立ち、内線電話で医務室へ通報したのだという。

「で、何を、ふと思い立ったのですか?」

「その前に、腰が抜けたお客様のことを説明しなければなりません。というのも、そのお客様、鼻血を出していたらしいのです」

「鼻血?」

「あくまで『降車係』の推察なのですが・・・」

『降車係』は、帰還したジェットの中に、腰が抜けた中年男性を発見。家族連れの様子。そのお客様は腰が抜けていただけでなく、ハンカチを顔に当てていた。

腰抜けジェット発生の合図を『発車係』へ送った後、『降車係』はそのハンカチに血がついていた事を思い出し、それは鼻血だろう、と思った。そして、先んじて医務室へ通報しておいたほうがいいと思い、プラットホームエリア内にある内線電話で通報したのだという。

「なぜ、『先んじて』と?」

「対応手順が出ているじゃないですか、マニュアルに・・・」

「あっ、そうですね。分かりました。『先んじて』の意味が・・・」

腰抜けジェットが発生した場合、車庫内で引き込み対応をしたスタッフが、医務室が利用できることを伝え、お客様へ大丈夫かどうか必ず確認する。そして、お客様が希望した場合には、医務室へ通報する。希望しない場合には、建物出口へつながる通路へと案内する。

ところが、今回の場合、『降車係』が自分の判断で、こうやってお客様へ直《じか》に確認する以前に通報した。つまり、先んじて通報した。彼なりに機転をきかしたわけである。

「で、今、『教育係』を、ここに呼ぶのはなぜですか?」

「ほら、覚えてませんか? P君が車庫内で、自然停止した腰抜けジェットへ対応しようとした時、『教育係』がやって来てバトンタッチしたこと・・・」

「あ、そうでしたね。彼なら、さらに詳しくその乗客のこと、訊けますものね・・・」

「鼻血!?」

教育係の彼は、逆に訊き返した。

「え? じゃ、鼻血は出してなかったの?・・・ とすると、ハンカチの血は、何だったんだ?」 チーフは首をかしげた。

「たしかに血のついたハンカチを手に持っていました。でも、お客様の話だと、鼻血ではなく・・・」教育係だった臨職の彼はその時のことを話した。

臨職の彼は、中年男性が手に持つハンカチの血には気づいたが、体のどこからも出血はしていなかった。たとえ出血したのだとしても、もう止まっていたのだろう。腰抜け状態もすでに収まっているようで、お客様は自力で立ち上がった。ふらついた様子もなかった。そして、予約したレストランの時刻が近づいているから、近道を案内して欲しいと要望した。ともかく、お腹がすいているようだった。

しかし、スタッフとしてはマニュアルにもある通り、医務室の存在を伝えた上、大丈夫かどうか確認しなければならない。お客様は大丈夫だと答えた。

が、念のため、もう一度確認した。

すると、お客様は中年太りでぱんぱんに貼ったシャツの胸ポケットから、眼鏡を取り出し、臨職の彼に見せた。古びれた金属フレームの眼鏡は、鼻当ての部分が、片側、外れていた。そして、鼻当てを裏から支える金属が剥《む》き出しになっていた。乗車中、手を上げたり下げたりとはしゃいだ際、手を眼鏡にぶつけ鼻当てが外れ、鼻頭を切ったのだろう、とお客様は説明した。たしかに、お客様が説明しながら指を当てた箇所を見ると皮膚が随分と赤らんでいた。だが、コントラストの強い照明のせいだろう。傷口の形までは見えなかった。

ずっと年上のお客様によるニコやかだがしっかりとした説明に、臨職の彼は納得し、建物出口へ繋がる通路へと、その家族と共に誘導した。が、念には念を入れて、レストランの後にでも利用して欲しいと伝え、別れた。

「そのお客様のお名前と住所は控えたのですか?」

「いいえ。控えませんでした。すみません・・・」彼は謝った。

その姿を見て、私は自分の権限を超えた質問をしてしまったことに気がついた。なにしろ、お客様の傷病となれば労働災害とは別の次元で対応することになる。人事担当部署が首を突っ込むことではない。

「もし問題があったなら、彼が勧めた通り医務室へ行くか、クレーム受付センターのほうへお客様は行くでしょう。もう4日経つけど、医務室からもセンターからも、こちらへ連絡ありませんし・・・ お客様自身が言う通り、本当に大丈夫だったのだと思います。念のため、各所へは確認しておきますけど」

そう言ったチーフは、臨職の彼を見て「心配することないよ」といった顔つきをしてみせた。

「労災の事でなくて、出過ぎた質問になりますが・・・」

私は言いかけておきながら、やはり躊躇した。

「今さら水臭いですねえ、樫見さん。なんでも訊いてくださいよ」チーフは促した。

「はい。ありがとうございます。で、『降車係』はなぜ、ハンカチの血を、鼻血だと思ったのでしょうか?」

「あ、それはですね。まだ確認したわけじゃありませんが、たぶん、怪談のせいでしょう」

「怪談?」

「ええ。パートタイマーの間で、変な都市伝説が語り継がれていましてね。当然、全くの嘘なので、我々も打ち消しにやっきになっているのですが・・・」

チーフは、臨職の彼をローテーションへ戻した。そして、怪談を話した。

開業当初より、バトルジェットの利用規定では、「身長百十センチ未満の人」「心臓の悪い人」「その他乗車に適しないとスタッフが判断した人」は乗車不可、となっていた。それは、建物の入り口、プラットホームまでの通路、そして乗車寸前の柵などに看板として表示され、周知徹底を図っていた。

開業3年目、この看板に、「脳溢血・脳卒中等の可能性がある方」という一文が加わった。

ここまでは、嘘ではなく事実である。

だが、このあと、全くの嘘が加わる。一文が追加された理由は「開業2年目の末に、或る事件があったため」という嘘だ。

この嘘によれば・・・

事故とはいえバトル遊園側の責任は一切なく、ジェットに興奮したお客様が脳溢血で亡くなった。それも二十代後半の男性。ただし、毎晩の美食が反映してか、中年太りのような体型。帰還した時にはすでに意識を失っていた。隣りに座っていた婚約者の悲鳴。『降車係』はすぐ腰抜けジェットと判断し、車庫へ迅速に引き込んだ。が、医師が駆けつけた時には死んでいた。

死者は、バトル遊園のスポンサーにも名を連ねる新進企業の御曹司。婚約者は売り出し中の局アナ。その筋からの手回しにより、この出来事は隠密裏に処理された。スタッフには口封じのため札束まで配られたという。だが、御曹司は、密葬ながらもゴージャスな葬送の効果なく浮かばれず幽霊となり、次の犠牲者を求めてバトルジェット館内を彷徨う・・・

「利用規定の看板に一文が追加されたのは、当時新任の産業医からアドバイスがあったからで、この怪談は事実無根です。なのに、まことしやかに語り継がれているのですよ」

「へえー、そうなんですかあ・・・」

「私が強く否定しても、『そう言うチーフも札束を受け取った一人』とまで尾ひれが付いているようで。まあ、ほんとに困ったものです」

「で、その怪談と鼻血の関係は?」

「あ、すみません。肝心な事、抜けてしまいましたね。で、帰還したジェットで意識を失っていた御曹司は、『たらりと鼻血を流していた』とされているのです。そのため、多くのスタッフは、腰が抜けた中年太りのお客様に過敏となっているのです」

「なるほど。でも、怪談はデタラメとしても、今回、先んじて医務室へ通報したことは、それなりに正しい行動だったわけですね」

「まあ、結果的には・・・  私以前に、先生と看護師さんが労災の現場へ到着していたのも、彼のおかげということになりますね。お客様ではなく従業員が負傷していたので、先生としては混乱したかもしれませんが・・・」

「いいえ、そんなことは・・・ 先生、そのあたりは何も考えずに対応したみたいです」

「ならばよかったです」

「すみませんでした。労災とは別の話で、お時間を取ってしまって」

「とんでもない。では、何かさらに調べることがあったら、いつでも遠慮なく・・・」

チーフはアクセスドアを開け、大混雑のプラットホームへ出ていった。