第26話

「アッちゃん先輩! こっちこっち!」

さっきの大混雑した従業員食堂とは異なり、がらんとした事務室なのに、私が入ったとたん、U子は立ち上がって大きく手を振り、元気な声を出した。

「冷たい麦茶があるけど、先輩、飲む?」

「ありがとう。せっかくだけど、いいわ」

「じゃ、さっそく・・・」

U子は、私たち以外誰もいないのに、背中を丸め、声をひそめた。

「A子さん、事故の前日まで、バトルボートの所属だったでしょ」

「そうだけど・・・」

また事故に関係のない話になってしまうのだろうか? そう思えてきた私は、気のない返事をした。

「そのころの事なんだけど・・・」

バトルボートでは、春休み初めから勤務を続けているA子さん。パートタイマーとしては、すでにベテランの域に達していた。それ自体に推進力を持たず、流れに乗ってフラットな水路を移動するだけのバトルボートは、構造も簡素で運営方法も簡単だったから、なおさらであった。そのため、パートタイマーながらもCSのお手本と言われるほど、A子さんは一生懸命働いていた。初夏に行なわれた全事業部のCSスマイルキャンペーンで、さわやか笑顔賞も受賞し、本社経営陣から表彰されていた。

「そうだったの・・・」

A子さんの前歴がバトルボートだったことはすでに知っていたが、それ以上のことはまだ知らない。私は、U子の話に再び関心を持ち、ぐっと身を乗り出した。

「でね。噂だと、A子さん、バトルボートのチーフに恋してたんだって!」

「恋?!・・・」

私はがっくりとした。

「あら、いやだ、先輩。本題はこれからよ!」

U子が聞きつけた噂によれば、バトルボートに3人配置されているチーフ、いずれも正社員だが、そのうちで一番の先輩格となる男性に、A子さんは片思いの恋をしていたという。梅雨入り前、六月初旬の或る晴れた日。A子さんは、船着場の待ち列整理係に就いていた。

「その時、憧れのチーフが突然!・・・」

「突然?!」

私は、そのチーフが突然A子さんに言い寄ってきたのかと思ってしまい、オウム返しをした。

「水路へ飛び降りたんだって!」

「えっ!」私は大声を出した。

水路を一周して船着場に戻ったボートからは、当然、お客様を降ろす必要がある。ボートを両脇から挟み込むゴム製のストッパー装置は働くものの、あくまでも水に浮いているので、降りる際に少し揺れることもあり、中にはバランスを崩すお客様もいる。そのため、船着場とボートを両足でまたぎ、降りる乗客の肘に手を当てがい、バランスが崩れないようお手伝いをする係を設けてある。これは乗船の時も同様だ。

慣れれば大したことのない作業だが、新人によっては、もたついてしまう。お客様とはいえ、見知らぬ人たちの身体に次々と触れるのを、遠慮してしまうからだ。

この時も、一人の新人のパートタイマーがボートから降りる客のバランスを取ろうとしていた。しかし、もたついてしまった。そうしているうちに、次のボートが一周終え、船着き場へ近づいてきた。その時、船着き場の隅に立ち、運行状況を眺めていた憧れのチーフが、ざんぶと水路へ飛び降り、近づくボートを正面から止めたのだ。

「ほんとに?」私は嘘みたいな話だと思った。

「ほんとよ、先輩!」U子は上半身をすっくと起こした。

「証拠は?」

「だって、私たち衣服管理部でしょ・・・」

U子が言うには、この頃から、ユニフォームの交換回数が急増した。それも運営中、ズボンびしょ濡れ状態で交換しに来る。奇妙に思った衣服交換係は、内々、調査をした。そして、チーフのみならず水路に飛び降りるスタッフが相次いだことを掴んだ。

この事実を受け、部長会議において、衣服管理部長がライド運営部長へクレームを言い掛けたのだが、会社一番のCSオタクと呼ばれる商品販売部長が顧客満足第一主義の見本だと言い出したため、むしろ美談として認められることになってしまった。

では、従業員の安全上、どうなのか?

船着き場に近づくにつれ水流は極端に弱まる上、たとえボートの間に挟まれたとしても、周囲に取り付けてあるゴム製バンパーのため、衝撃はない。水深もせいぜい腰の下ぐらいで、大人が溺れる可能性は低い。

「ということは、もしかしてA子さんも・・・」

「そうなのよ、真似して飛び降りたのよ。もっとも、A子さんだけじゃなく、リーダー格、先輩格の臨職やパートはほとんど、機会を見つけて一度は飛び込んだそうよ。バトルボートでは、それが一種のステータスになっていたみたい」

「ほんと?」

「ほんとよう!・・・ でも、ちょっと笑えちゃうの」

「笑える?」

「うん。混雑に関係なく、よく晴れてて暖かい日や暑い日、それも昼間にしか発生しなかったんだって。だから、衣服交換係どうしでは、むしろ気晴らしに飛び込んでいるのじゃないかと陰で批判しているのよ・・・ そこんとこ、わたしが聞きつけたわけ。どう、先輩。役立ったでしょう?」

たしかに、この噂がデタラメでなければ、A子さんがジェットの前に立ちはだかった動機が窺い知れる。

腰抜けジェットが引き込まれた。そのあと、安全バーの降りない不具合ジェットが引き込まれた。

停止した腰抜けジェットには、きっとお客様がまだ座っていたのだろう。そこへ、16人満載の不具合ジェットが進入してきたのだ。

この状況を目の当たりしたA子さんは、前者に後者を追突させまいと思った。だが、第一単元が終わったばかり。「車体横のバーを両手で握り、引き戸を引くように」という正しい止め方は知らない。

そこで、ジェットの真正面から止めようとしてしまった。バトルボートの船着き場で水路へ飛び降り、後続ボートを正面から止めた体験を思い出しながら・・・

私はU子に念を押した。

念を押されたU子は、デスクのノートパソコンをいじった。バトルボートのユニフォーム交換記録の欄を検索した。A子さんの名前があった。交換理由欄には「ボート追突防止のため入水」と記してあった。

叔父が言う通り、やぶから思わぬ蛇が飛び出した。

しかし、労基署へこれを原因として報告するのは、あまりにも稚拙だ。それに、もしこれが受領されてしまったら、バトルボートでの奇妙な風習には終止符を打てるかもしれないが、A子さんの労災は「やっぱり被災者本人の不注意」と片付けられてしまうだろう。私はU子へ堅く口止めをした上で、バトルジェットの車庫へ戻った。