第2話

「アッちゃん、ちょ、ちょっと、いい?」

 真夏の朝一番、課長はそわそわしながら私の席まで来て、蚊の鳴くような声を出した。

 施設管理部の植栽課から総務部の人事課へ異動してきた課長は、くたびれてしまったカバさんのようにどってり席に座っていることが多かった。おそらく、毎晩のお酒の付き合いで体力を消耗し、日中は休養にあてていたのだと思う。

 とはいえ、課長は外出したり、各部門の現場オフィスへ出向いたりと、出入りもしている。事務作業に追われ仕事机に貼り付いたままの私には見えない所で、実は重大な任務を果たしているとか・・・ いや、あまり期待できそうもない。

 しかしその分、仕事は完全に任せてくれた。私もカフェチェーン事業部から遊園地事業部へ異動してきて日が浅いが、給与厚生業務については七年以上の経験を持つ。

 もっとも、正社員の給与厚生業務については、本社の人事部が全ての事業部共通となる作業をまとめて担当してくれていた。そのため、私が行なうのは、臨時従業員とパートタイマーに関する事務が主であった。が、乗り物、商品販売、飲食施設、駐車場、警備、清掃など業務運営の最前線に配置される人は、ほとんどがパートタイマー。雇用契約を結ぶ人数は万の単位となるため、私の総仕事量はとてつもなく大きかった。だが、一つ一つの作業の難易度は高くなく、単調だった。

「えーと、あのう、実はね。きのう、現場で労災があったんだ。アッちゃんに隠しておいて済まなかったけど・・・」ドアをしっかり閉めた小会議室で課長は話し始めた。昨晩も深酒をしたのだろう。頭はまだ回転していないようだった。それにもかかわらず、かなり焦っているようで、しどろもどろとなった。私は、自分で要点を整理しながら聞いた。

 昨日、人気ローラーコースター「バトルジェット」で労働災害が発生。被災者は、今年の春から働いているA子さん。専門学校に通うパートタイマーだ。ジェットを収納する車庫内で、ローラーコースターの車輪に両足を巻き込まれた。バトル遊園初の重大災害だ。

 病院に駆けつけた両親、特に父親は激怒した。事故の経緯を説明しろと課長に迫った。さもないとマスコミへ駆け込んでも真実を追究するという。

 それに、会社としても労働基準監督署へ、事故の原因を来週一番に書面で報告する必要がある。今日は金曜日だから、三日の猶予だ。間に合わなければ、最悪、営業停止命令を受けるかもしれない。そこで課長が現場のマネージャーへ問い合わせたところ、「原因は被災者本人の不注意に尽きる」との回答。だが、労基署がこれだけで納得するはずがない。もちろん、被災者の父親もだ。

 面接と採用は、パートタイマーであっても本社の人事部が各事業部や地域の拠点へ出向いて行なう。教育と日々の勤怠管理は現場が行う。そのため、私は被災者の名前をサーバー上で見掛けたとしてもその人物は知らない。正直、気の毒という気持ちは沸かなかった。だが、単調な事務仕事から目先が変わり、関心が沸いた。

「誰か、事故を目撃していないのですか?」

「そ、そうらしい。事故の瞬間、車庫内にはA子さんしか居なかったそうだ。だから、本人に訊かないと原因がつかめないんだよ。そこで、えー、あー、悪いんだけど、アッちゃん。病院で会ってきて欲しいんだ」

 くたびれてしまったカバさんという私の評価が妥当だとしても、課長は決して悪い人間ではなかった。むしろ優しい部類である。父親の強行な態度にたじろぎもしただろうが、女性の被災者にインタビューするのなら、同じ女性である私のほうがいいと配慮したのだろう。

 私は引き受けた。

 いや、訂正する。会社から人事業務を委任されている課長に言われた以上、私は「引き受けた」のではなく「社命を受けた」のだ。つまりミッションである。とはいえ、私がやる気になったのは、単調な事務仕事から一時的でも解放されるという、利己的な動機以外の何物でもなかった。

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